第一条
「全社員、全人類の物心両面の幸福を実践すると共に、世界平和統一を遂行する。」


 この事柄は、厳格にいうと、諸君が自己の指針とし、十分に現実化するか否かで、その人生の一生が決定されてしまうという、広い意味における人生の意味を堅固(心がしっかりと定まって動かないこと)すると同じくらい、極めて価値高い問題である。
 私は、一つひとつテーマを変えて人生建設に必要な人の道を説いているのも、結局諸君の迷いを覚まし、悟りを開かせ、真理、すなわち本当の真実に順応(環境、境遇にしたがって、これに適応すること)して活きる人間を創るためであり、また本当に諸君を、万物の霊長(万物の中で、もっともすぐれて霊妙なもの、すなわち人類)たる資格を持つ人間にしたいからがためである。
 そして人生を本当に有意義に幸福に活きられる人にしてあげたいのが目的だからである。
 だから、かりそめにも、人間として理解し、悟らねばならない真理は、私の知るかぎりの全部をもって、諸君を導く、そして、救うことを私の信条としているのである。

 立派に万物の霊長たる資格を持って活きるには、いやしくも、人として理解しておかねばならない人生真理を、出来る限り自分の人生を考える中で、きちんと蓄えておかねばならない。そうでないと、人生を完全に活かすことが不可能になるからである。
 言い換えれば、人生真理を理解するということは、ちょうど、弱いものいじめをしている悪いヤツらを、バッタ、バッタと叩きのめして行くことと同様である。
それと付け加えるが、私が普通の凡人で、金のためだけで仕事に活きるなら、諸君にただ
「売上を上げろ。もっともっと上げろ。」
「経費を抑えろ。出来るだけ払わないようにしろ」
というだけでいいのである。
 一々難しいことを考えず、それだけ「ガミ」「ガミ」やっていれば、我グループは、おそらく今の国内の中でも、かなりキャッシュを持つこととなるだろう。
 しかし、私はあえてそれをやらない。やらないというか、捨てている。それは、人生とは金ではないからである。
人間の夢は、財産や名声ではない。人間本来の夢、そして使命は、
『世のため、人のために、自分が出来る限り、この身を投げ尽くす。』ということである。
そして事業家もそうでなければならない。ところがどうだろう?
 今の事業家を明察(はっきりと事情、態度を見抜くこと)すると、わずかの不渡りを受けても、なめくじに塩かけたみたいに気息奄奄(息も絶え絶えで、今にも死にそうなさま)となり、少々の損害を受けても「もう駄目だ」と逃避する。
 だから、バブル景気にやたらあおられて、急成長、高度成長した奴らがバタバタと将棋倒しというか、ドミノ倒しに倒れてしまうのは、欲の皮だけ突っ張っていて、心に信念(ある教理や思想などを、固く信じて動かない心)というものが、全く欠如(欠けていること。足りないこと)しているからである。
 諸君も潜考(心を落ち着けて考えること。深く考えること)してみよう。
 自分の心の中には、自分でも愛想の尽きるような、随分と悪い思想や、悪い観念が蔓延って(一杯にひろがること)いるということを否定出来ないだろう?
 また、そういうものが、自分の心の中にないとしても、やたら「悲しんだり」「怒ったり」「怖れたり」と、心の中を暗行するような消極的な観念が随分諸君の観念の中には、もう自分でも困るくらい、時として愛想が尽きるくらい発生する。
 そこで、今まで聞いた正しい理解で、健康や運命を正しく建設し、人生を活きがいのある状態にしていくためには、今述べたようなものを、心からまず除き去らなければならないのである。
 どんなに学問をし、また、どんなに経験を積もうとも、私の真理によって、得た悟りを現実に実行して行かなければ、本当の幸福というものは現実にならない。
 ところが、おおむね諸君も同様、こうして真理を聞いているときは、感謝し、「ああ、そうだ」「まったく同感だ」と考えていながら、一日寝たら忘れてしまったり、理解していても、病気になったり、仕事で悪いものにぶつかったり、運命に悪いものが起こるとそれから離れてしまう。何のために教えを聞いたのかわからないような哀れな状態を自分の生命につくってしまう人が多くはないだろうか。そんなことでは、人生の真理を悟ったというのではなく、ただ理解したというだけのことである。
 理解と自覚は全く異なる。
「理解」というのは、ただわかったというだけであり、「自覚」というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。
 どうも諸君は、理解ということだけで、感謝したり、あるいは非常に大きな法悦(味わって起こる、この上ない喜び)を感じたりするような馬鹿馬鹿しいことを、大変価値のあることのように考えている。一番先に必要なことは、諸君の心の中に存在して「悩ませ」「迷わせ」「悶え」させている雑念(気を散らす種々の思い。よけいな思考)、妄念(迷いの心。迷妄の執念)という、要らないものを除き去らない限りは、如何なることを聞いても、わかったということが、直ちにわかったことにはならない。
 自覚というのは、結局、その雑念、妄念を払い除いて、自分の知識の中に受け納めたものでなければならない。
 そうすれば、如何なる運命に見舞われようと、決して自分の心の強さというものを弱める気づかいはない。
 しかし、ただ上っ面だけ理解していて、相変わらず雑念、妄念を潜在意識の中に潜めていたのでは、いつまで経っても、ものがわかったというだけで、実行に移されない。
 その結果、結局は「飲んで、喰って、垂れての、まるで私は製糞機。」という結果が人生に生じてくるのである。
 たとえば、夜眠れないときに、何もわからず「眠れないなあ、困ったなあ。」と思うだけでも、睡眠を十分に取らないと、それが原因で、生命に対する障害がどれだけ夥しいかということがわかると、「眠れないと、自分の体の中に疲労が余計に増え、尿素過剰になり、それが原因で、肝硬変の素を作ったり、腎臓病の素を作る怖れがある」ということを考えたりして、二重にも三重にもその苦痛が自分を襲ってくることになる。
 その時、正しい自覚を持っている人間は、雑念、妄念を払い除いてあるから、心の態度が立派に積極的になっているので、気高い心で一切を処理し、命を脅かすようなひどい病が起ころうと、どんなひどい運命に襲われようとも、巧みにその心の中で挽回(もとへもどしかえすこと。回復する)してしまうことが出来るのである。このゆるがせに(心をゆるめるさま。おろそかにするさま)することの出来ない重大な消息を、多くの人が、ゆるがせにし過ぎているのである。そして、やたらと、怒り、悲しみ、怖れ、憎み、悶え、迷い、苦しんでいるのである。
 ひとたび人生真理に目覚めれば、そのように人生を心ならずも、不調和におとしいれたり、あるいは、根本的に破壊するような凶悪な不必要な気持ち、心持ちというものは、少なくとも、現在より遙かに数を少なくしてしまうものである。
 だから、まことに「人生真理の自覚」ということは、人生を不調和におとしいれたり、または、人生を破壊する凶悪な運命から、魔の手を防ぐ「鉄の盾」(くろがねのたて:鉄製の盾。きわめて屈強な護衛などのたとえ)のようなものである。
 人生を悟るということは、無限の力を生命を中に受け入れる入れ物を用意したことになる、ということを思考すると、簡単には絶対にすませられない大切なことであり、人生を完全なものとして、活きていこうとする者にとっては、これはもう、真剣以上の真剣さで考えてみなければならない、人生問題の中の最高のものである。
 ところが、この私もわからなかったとはいえ、そのようなことを全く考えなかったという愚かな人間の一人であった。
 だから、ただ活きていられるから活きているという惰性的な活き方ばかりしてきた結果が、思いもよらない大きな失敗を身に引き受けたり、しなくてもよい苦しみを、自分の生命に与えられてしまったのである。
 しかし、幸いにも、自分を甦らせる真理を自覚したおかげで、今日があるわけである。
 私は、自分の経験してきた苦い過去を諸君にはさせたくない。もちろん、そのようなことは全く考えもしないで聞いている人も多いであろう。しかし、求める求めないにかかわらず、また知ろうとする、しないにもかかわらず、人間として活きている以上、多くいうまでもなく、自分の生命の全体は自分が守らなければいけないのである。
 自分の生命、運命に、どんな嵐が何時吹いて来ないとも限らないというのが、人生である。何の嵐も吹かない、何の出来事もない、いわゆるノーアクシデントが人生の全部なら、我々は、何もこういう方面のことを考えるまでもなく、今までどおり、「金だ」「食い物だ」「洋服だ」「色だ」「恋だ」「遊びだ」「戯れだ」といって過ごせば、それで人生というものが万事OKだ。
 しかし、油断もすきもありゃしないというのが、文字通り人生の本当の姿である。考えてみれば、そら恐ろしい人生だ。
はっきりいって、諸君は、「今現在がどうもなければ、永久にどうにもならない。」と思うほど、極めて呑気という以上に、緩んでいる気持ちを持っている。
 もしも金が出来て、地位が高くなったがために、幸福になれて、病気に罹らず、悪い運命にもならず、また死にもしないというなら、まことにこれは、結構ずくめであるが、いくら金が出来ようが、地位が高くなろうが、何がどうしようが、そうはいかないのが人生である。
 だからこそ我々は、何を措いても、正しい人生にからまる真理だけは、自覚して活きねばならないのである。
 私の真の願いは、諸君の一人ひとりが、健康も、運命も、本当に幸福になり、そういう人が増えれば、その人たちの言葉や行いによって、多くの迷っている人が美化善化してくる。諸君の一人だけが、善くなるためだけにいっているのではないのである。
「選ばれた人間として、ここにいるのだ!」という信念を持たなければならない。
 私みたいな人間が、こういう尊い仕事をする気になったのも、信念だった。

 私がこの仕事を最初にするとき、止めた人間が誰であろう。
楢崎与ノ助という、その当時、国会で有名な代議士であった。
「駄目だから、おやめなさい。」といったが、私はこう思った。
「本当の気持ちで人のためを思ってする仕事が、駄目とは、如何なる理由か?
 人に善いことを進め、人を幸福にすることが、なぜ駄目なのか。いや駄目とか、駄目でないとか考えない。ただ人を幸福にすればよいのだ。それが、自分に出来ないはずがないのだ!」という気持ちでこれを始めたのである。私のこの気持ちを信じてくれたのは、当時、妻だけであった。他の人々は皆、私の気が狂ったと思った。それはそうかも知れない。
 たとえ何であろうと、私のデモクラシーは現代の『現世主義(現世の生活を第一義とし、前世や来世の存在に無関心な生活態度)、物質主義(精神的なものを無視して、衣食住などの問題を第一義とする立場)』のみの世の中の仕組みにあてはめることが出来ないからだ。
 しかし、私には私なりの信念があった。
 尊い真理に国境はない。
尊い因縁に恵まれて、こうして我グループに集まってきた以上、自然の摂理(すべておさめること)に従い、ただ自分だけではなく、世の人々を幸福にするために活きてこそ、この世に生まれた活きがいがあるのだ。
 だから、どうぞ、世のために、本当に心の底からお願いする。改めて今日から古い人も心を入れ換えて『信念の人』になりなさい!!
 そして、「ただ自分だけよくなればいい。」「自分の仕事、自分の会社さえよくなればいい。」という小さな欲望ではなく、
『世界一の日本を造るのだ!!』
『世界中すべて日本の自覚した民族のような、平和な社会を造るのだ!!』
という、もっともっと、でっかい欲望を持ちなさい。
 全人類からみれば、人数は少ないが、我グループ社員、従業員を合計すると、約一万人。今後もさらに増えて行く。
そして、いつの日か必ず平和な世の中にするために、我グループの事業、この「救世(乱れた世の中をよくすること。人々を苦しみや不幸の多い世から救うこと)事業」に命をかけて誇らしく活きて行こうではないか。



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