私のイデオロギーは、この世に活きる人々が、本当に幸福に活きられるような、もっと明るい世界を造ろうということに、最も重点を置いている。
否、それのみといっても過言ではない。
もちろん、このことは、我グループ社員は、いまさら事新しくいうまでもなく、十分に理解、自覚し、それを自己の人生に対する責務として、精進されていることと確信する。
そして、本当の明るい人の世の世界というものを現実に創り上げるには、お互い人間同士が、もっと、もっと正しい愛情で愛し合わなければならないということも、朝礼の教義の中で説いているから、これまた十二分に承知されていることと思考する。
そこで、その正しい愛情ということであるが、「お互い人間が、こうしてこの世に活きて存在している。」という犯すべからざる事実を、もっと、もっと真剣に、厳粛(おごそかで、つつしみぶかいこと)に思量(思いはかること。考えること)し、そして、心の底から、その生命の存在を尊敬し合わない限りは、人間の心の中からとうてい発生して来ないというのが、人間の心理現象に対する、峻厳(きわめてきびしいこと)なる宇宙真理なのである。これは、是非とも知徳(真理を正しく知るはたらき)しておかねばならない大切な人生理解なのである。
ところが、この大切な愛ということを説法している宗教家でも、この肝心要の要点を示教(示し教えること)していない。最も、私が常に教義しているとおり、このようなことばかりでなく、人生を研究している学者や、見識者と呼ばれる人物でも、その多くは「如何に言うか」に重点を置いて、人生解決に何よりも大事な「如何になすべきか」ということを説いていないという遺憾(思いどおりに行かずに心のこりなこと)な実際傾向がある。それというのも、遠慮なくいえば、つまるところ人生哲理を深く究めることや、あるいは、心理現象に対する科学研究に、いわゆる真実の真剣さと、たゆまぬ努力というものが、おそらく欠如(欠けていること。足りないこと)しているからではあるまいかと思う。
それは、大企業といわれる経営者たちにもいえるが、何れにせよ「本当に愛するという気持ち=正しい愛情」というものは、活きている(いのち)ということに対する尊敬という心理現象がこれに相対するバロメーター(物事の状態・態度を、知るための目安となるもの。指標)をなすものである。
従って、こうして呼吸し、飲食し、排泄し、そしてものをいい、お互いにその心を感じ、理解し、さらにこうして生命が動いている。
即ち、活きているという大事実を、心の底から尊敬するという気持ちにならないと、所詮、正しい愛情というものは、心の底から湧き出て来ないのである。
たとえ、いくら愛そう憎むまいと思っても、である。
実際!
これは最も大切な理解なので、たとえ愛の心が「宇宙根本主体の心=神仏の心」であると、充分にわかっていたとしても、活きている「いのち」に対する「尊敬」という気持ちが、徹底しないと、「愛」という尊厳(とうとくおごそかで、おかしがたいこと)な心情が発露(あらわれること)しないのである。
従って、今の世の中に活きる人々が、ひょっとすると、極端な利己主義に堕し(よくない状態傾向に陥る。堕落する)、自分一人さえよければ、他の人はどうでもよいというように考えて、それが何か人生への当然の活き方のように思い、自分の存在に関係する利害を標準として「愛」の使い分けをする人の多いのも、結論的にいえば、人のいのちの存在に対する尊敬の念が欠如しているからだといえる。
いのち!
いのちとは、こうして活きている現実の状態に名付けられた名称である。言い換えれば、不滅のエネルギーが、人間から人間へ、はっきりいえば、親から子へ、子から孫へと、その生殖細胞へ相伝(代々うけつぐこと。つたえつぐこと)され、そしてそれが、現象界に現実に活動している状態を指しているのである。
これを、なんと、平凡な人間は、一向に尊いことだと考えない。
それというのも、突き詰めれば、活きているということの微妙さを不思議だと考えないからに原因がある。
ところが、真理に徹すると、そういう人を、むしろ不思議だと反対に考えざるを得なくなるのである。考えるに、平凡な人、要するに凡人というものは、飲食し、排泄し、呼吸をしておりさえすれば「いのち」というものが、活きていられるのが当然だと思っているらしい。
そしてまた一歩進めて、呼吸し、飲食し、排泄していれば「いのち」が活動するというのが、実に不思議だとは、ほんの少しも考えないらしい。
しかし、何といっても、いのちが活きているのは、実に不思議なのである!
特に、人間の活きているという、極度の微妙さをもって、活動する生命の可能性を考えると・・・。
否、
不思議などという言葉では、とうてい形容できない!
ならば、何と形容すべきか!
いわく、・・・「ミステリー=神秘だ!」
全く神秘そのものである。
否、否、
この生命存在の真実の消息を静かに凝視(目をこらして、じっと見つめること)すれば、期せずして、活きているという生命の姿の中に、神秘のさまざまが感じて会得され、自然と心からそれを尊敬する気持ちになれるはずである。
ですからして、何を措いても、お互いの「いのち」の活きているという現実を、心の底から深く敬う気持ちで尊敬しよう。
そして、正しい愛情の持ち主となって、明るい世界の現実建設を、人生最大の念願としようではないか。
さらに、こうした気持ちになることこそ、人各々、自らを完全に活かすことになるのである。
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