第五条
「無限の可能性を心に秘め、雑念、妄念を除き去り、一切に対し、絶対積極心で活きる。」

 現代の人々は、物質文明という時代に生まれたおかげで、物質的方向の生活に対する利便性は、昔と今とでは比較にならないほど、幸福に活きられている。
 しかし、精神的方面の生活というものは、残念ながら、昔の精神主義で活きている人間に較べると、それはもう全くお粗末である。それというのも、文化の状態が、精神文化を置き去りにしているからである。これがなんと、万物の霊長(万物の中で、もっともすぐれて霊妙なもの、すなわち人類)かと、思わざるを得ないほど、醜く汚らしい心を使っている人が多い。
 それが、紳士であり、淑女であるというのだから、紳士、淑女というものの正体をあばいてしまうと、ずいぶん汚れたものであると、いわざるを得ない。
 しかし、何れにせよ、このような事実が存在しているのは、心の偉大さも知らなければ、また、その偉大な心が、なぜ人間にだけ与えられているのかということなど、全く気付かない、というよりも、むしろ、全く知らず、わからずにいるからなのである。私がこのようにいうと、諸君は、おそらく「私の心は、そんなに大きくない!」とか、「他の人の心はそんなに偉大なものかも知れないけれども、自分の心は、小さいものだ!」などというのだろうけれども。
 しかし、それは、現代の人々が、心の動きを全部使わず、せいぜい使っても、一割か二割しか使っていないからなのである。
 そして、残っている何割かは、一生使うことなく、人生を活きているから、自分の現在まで使っている心が、非常に小さく見えるのである。しかるに、自分が如何なる心の使い方をしたにせよ、万物の霊長たる人間として生まれた以上、はかることが出来ない偉大な心を与えられているということに、気付かなければならない。
 それが、本当に悟れると、如何なる場合に措いても、「心の持ち方を、後ろ向き、消極的にしてはいけないのだ。」ということも、自然と悟れるのである。

 それでは、心は本当はどれだけ大きいものであろうか。
 これはもう、考えればすぐ察しはつくであろう。
 それは、何かというと、
 この広大無辺といわれる大宇宙を、人間が考えたときにすぐ考えられることである。

 およそ宇宙というものは、この世の中の一番大きなものである。と誰もが考えている。
 たとえば、あの空の煌めく星の数は、人間の肉眼で見える数だけでも、数千もある。しかし、望遠鏡で覗いて見ると、そのレンズを通して見える数は、実に数百万に達する。
 そして、これらの星一つひとつが、みな一個の立派な太陽であり、この中には、我々の太陽よりも、遙かに大きいものがたくさん存在しているのである。
 そして、さらに驚愕(非常に驚くこと)することには、これらの一つひとつの星の周囲には、やはり太陽と同様、数々の惑星や、衛星が、多数存在していることである。
 このようなことを考えても、この宇宙の広大が推察できる。そして、その空間に、所狭しと密集しているように見える多数の星が、なんと、決して衝突もせず、また追突も、接触もしないのである。
 それに引き換え、人間の世界の交通事故を考えると、まことに笑止千万である。
 さすれば、宇宙は、何ともいえない、微妙な調和をもって、その空間を秩序正しく運行しているのである。そして、さらにアインシュタインは、これらの星(惑星・衛星・恒星)の中にも、一定の進化があると述べている。
 そこで、真剣に気付かなければならないことは、人間の心の大きさである。果てしない大宇宙よりも、人間の心の方が偉大であるということである。
 たとえば、月を見てたたずめば、心は見つめられている月よりも、さらに大きいということを考えられはしないだろうか。星を見てたたずんでいる時に、その星を見て考えている心の中は、大きなものを相手に考えているのだから、それはもう、それだけで、星以上に大きなものではないか。
 星を見て、その星よりもさらに広大な様子を想像できる、という簡単なことを考えただけでも、如何に人の心が一切をしのいで広大であるかということを痛感する。
 ところが、それが今の人はわかっていない。
 ましてや、もう何千年も前に「仏典」には、既に書き記されていたのである。
 これを読んで私は「ハッ」と気付いた。
「う、うん・・・広大無辺の大宇宙よりさらに心は大きいではないか・・・。」と。
 そして、この神秘が数多い世界の中で、人間の心だけが、こうした尊い偉大な働きが与えられているのだと。

 ところで、誰でも愛情というものを持っている。
 しかし諸君が持っている愛情は、偏頗(かたよること。不公平。えこひいき)な愛情である。即ち、自分の気に入ったものだけ可愛がって、気に入らないものは、可愛がりはしない。このような愛は、本当の愛情ではない。
 太陽の光線のように、あれこれと選ばず、普遍的(あまねくゆきわたること。すべてのものに共通に存すること)な気持ちで愛さなければならない。
 太陽の光線は、美人の顔も、犬のウンチも燦燦(太陽などの光がきらきらと輝くさま)と照らしている。
「俺は犬のウンチはいやだから、美人の顔だけ照らす。」とはいわない。ところが、諸君は、可愛いものだけを可愛がり、憎らしいものを憎む。
 第一、憎むという気持ちは、悪魔の気持ちである。もし、自分が人から憎まれたら、どんな気持ちになるのかということを考えてごらんなさい。
 諸君は、人に憎まれることを好むだろうか。それとも愛されることを好むだろうか。
 村八分にされるのが好きな人間はいないだろう。

 だから特に我グループの社員は、太陽の様に全ての人々を偏頗なき愛をもって、平等に照らしなさい。

 それから、多くの人は、自分よりも優れた人や、出世したり、成功したり、丈夫な人を見ると、そういう人は「特別な生まれつきだ。」と思っている。
 そこが大きな間違いなのだ。
 生まれつき、天才のように見える人間でも、成長するにつれて、やり放しにしておけば、凡人になってしまう。凡人と見える人間でも、立派な修行を積めば、驚愕すべきほどの人間となれるのである。
 それを多くの人々は、「あれは生まれつきだから特別の人間だ。」と決めつけてしまうところに大きな間違いがあるのだ。
 偉い人と言われ、名を成し、業を全うし、あるいは、容易に人の考えないような尊い真理を考えたりする人というのは、特別製の、とても偉い人だと思うかもしれないが、そうではない。
 あなただって、それと同じような値打ちを持っているのである。
 ただ、あなたは、それを心の方が運用していないからだけなのだ。
 ダイヤモンドを持っていながら、それを磨かずに使っているから、いけないのである。
 つまり、出世、成功、あるいは非常に健康に、また幸運に活きている人は、心の内容が常に前向き、私がいう通りの人間であるからなのだ。

 遠回りする必要はない。いうまでもなく、消極的な雑念(気を散らす種々の思い。よけいな思考)、妄念(迷いの心。迷妄の執念)という要らないものは持つ必要もない。

 もっというならば、要らないものばかり持って歩く人がいたら、諸君は、それを、賢い人間だというだろうか。

 大きなズタ袋をさげて歩いている人を見て、
「何が入っているのですか。」と聞いたら、
「いや、なあに、こえ、くだらないものですよ。」と、その人はいった。
「何か大事な物ですか?」と聞いてみると、
「いやあ、要るものじゃないんですよ。」
「じゃあ、それをなぜ、さげているのですか?」と聞いたら、「いやあ、それが気になってねえ。これ家に置いておけないんで、こうやって持って歩いているんですよ。」
といったら、諸君はどう思うだろうか。
「これあほかいなあ」と思うだろう。

 今述べた、これと同じような愚かなことをしていて、自分は愚かだと思わず、心の中に随分と要らないものをたくさん持っている人が極めて多い。
 要らないものが詰まっていると、肝心要のものを覚えようとするときに、ほどよく覚えられない。そして、自分がそれほど軽率であることは気付かず、「私は物覚えが悪いので・・・。」と平気でいっている馬鹿者がいる。そのくせ、自分のものだけは、どんなものでも、忘れない。どんな、物覚えの悪いという人でも、時に、人のものまで持ってきてしまう。笑いごとではない。

 人間、活きている以上、物覚えが悪いということはない。
 要するに、要らないことはどんどん忘れて、要るものだけ大切に持つことである。

 心には、もっともっと偉大な働きがあるのだから、どんな場合でも、病があったり、不運の時には、より一層、心を積極的にするよう、努力することである。

「人が何といおうと、そうするのだ。」といわんばかりに、心を積極的にし、堅固(心がしっかりと定まって動かないこと)すべきである。

 如何なる人生事情に措いても、本当に自分の心の中には、無限の可能性があるのだということを夢にも忘れてはいけない。



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