第七条
「“働くがために活きる”
人生の一切を、感謝に振り換え、真の活きがいのある人生を活きる。」

 私は、常に思う。
「世の中の人の多くは、なぜもっと生活の中の情味(人間らしい思いやりや、あたたかみ)というものを味わって活きようとしないのか。」と。
 というのは、世の中の人々の生活への姿を見ると、たのもしい積極的生活をしている人が事実に措いて極めて少なく、おおむね多くは、消極的な、勢いのない力弱い生活に終始している人が多いからである。
 これというのも、突き詰めれば、生活の中の情味というものを味わって活きようとしないからで、生活の中の情味というものを味わって活きようとしないと、その結果は、ただ悲しいとか、苦しいとか、腹が立つとか、辛いとか、等々の人生の消極方向にのみ、その心が引き付けられて、いささかも大きい楽しさを感じることなく、ただ活きるがための努力のみに徹し、二度と現実に還り来らぬ日々を、極めて価値なく過ごしてしまわねばならない、という無意味な人生を終始させることになる。
 率直にいえば、そのような人は、人間はただ活きるがために働かねばならないのだ、というように「働く」ということの価値批判を第二義(根本の理義でないこと。主眼とする意義でないこと)に堕せ(よくない状態、傾向に陥る。堕落する)しめて、働くということが、人間の本来の目的で、言い換えれば活きるがために働くのではなく、働くがために活きているのだという正しい第一義(究極の真理。最も大事な根本の意義、また、本質的で最上の価値あること)的の考え方を、働きに対して持っていない。
 従って、その当然の結果として、その働きに対する報酬(労働、骨折りや、物の使用の対価として、給付される金銭、物品)に、多くの場合、満足感を感じない・・・。言い換えると、働きの結果が、自分の思うように現れないと、直ちに不平や不満や、あるいは、時とすると、自暴自棄(失望、放縦などのために、自分の境遇、前述を破壊して、顧みないこと。やけになること)にさえ陥る。また、そこまでならないとしても、活きる楽しさを感じない力弱い人生に活きるべく余儀なくされる。
 だから、真に活きがいのある人生を活きるためには、何としても、我々は、自分の人生生活の中の情味というものを味わうということを、常に心がけるべきである。

 否、
 厳格にいえば、この心がけを欠如(欠けていること。足りないこと)した人の人生は、如何に地位が出来ようと、また、仮に富を作り得たとしても、所詮は、無意義で、空虚で、荒廃たるものになる。
 多くの人の、特にいけないことは、生活の中の情味というものを、物質方面にのみ求めることである。生活の中の情味というものを味わうというのは、心の問題であり、物質の問題ではないのである。如何に豊かな収入を持ち、満ち足りた物質を獲ても、心が、その生活の中の情味を味わえなければ、あるも無きに等しい。
 世間にいうところの、金持ち貧乏とか、位倒れ(位階ばかりが高くて、実質、または実収入が伴わないこと)とかいう言葉は、こういう事実の形容詞なのである。
 これは、深く考えなくとも、良識のある人ならすぐ理解できるはずである。
 たとえば、客観的に、どんなに恵まれているように見える人でも、その人が、その現在境遇に飽きたらず、満足感を感じていないならばどうであろう?
これに引き換え、仮に客観的には恵まれていない、不幸な人に見える人といえども、一日の仕事を了えて、たとえ貧しい食事でその空腹を満たすときでも、それが、自分の尊い労役の花であり、心身を働かした努力の稔りであると、無限の感謝で考えたならどうであろう?
金殿玉楼(金や玉で飾った建物、非常に美しく、立派な御殿)の中にあって、暖衣飽食(暖かい衣服を着、腹いっぱい食べること)、なおかつ何等の感謝も感激もなく、ただあるものは、不平と不満だけと、憐れな人生に比較して、まことや、人生の一切を感謝に振り換え、感激に置き換えて活きられるならば、依然として、そこにあるものは、高貴な価値の尊い人生ではないでしょうか!!
 否、こうした心がけの現実実行こそ、活きる刹那刹那(瞬間瞬間)に、なんとも形容の出来ない微妙な感興(興味を感ずること。面白がること)おのずから心の中に招来(招きよせること)し、如何なる時にも、生活の情味というものが、当然味わわれることになる。
 だから、厳格にいえば、生活の情味を味わわずして、活きている人には、本当の人生生活は、ないといえる。
 もっと極言すれば、人間の幸いとか、不幸とかいうものは、結果からいえば、生活の情味を味わって活きるか否かに所因するといえる。
 前述したとおり、貴賤(身分の高い人と低い人)貧富などというものは、第二義のものである。

 実際!
 如何に、うなるほど金があっても、高い地位名誉があっても、生活の中の情味を味わおうとしない人は、所詮本当の幸福を味わうことは、絶対に出来ない。
 最も、こういうと、中には、現代のようなせちがらい世の中、いささかも面白みを感じることの少ない時代に、生活の中から情味を見い出せよ、などということは、随分無理な注文だと思う人があるかもしれない。しかし、そのような人は、遠慮なくいえば、人生生活を看る見方があまりにも狭義で、かつ、また強いていえば、平面的であるがためである。

 なるほど!
 その生活に負わされている負担とか、犠牲という方面のみを考えると、およそ人間の生活ぐらい苦しく、辛く、悩ましいものはないと思われよう。そして、考えれば考えるほど、しばしば苦楽の両感情が妙にこんがらがって苦しいような、楽しいような、自分自身でも、わけのわからぬ不思議な感情の中に、回転させられているとさえあるであろう。

 しかし、人生というものは、もっともっと立体的に観察すべきである。すると、期せずして生活の範囲の広いことと同時にその内容が、ちょうど、精巧な織物のように、極めて複雑な色模様でちりばめられていることに直感する。
 そして、その直感なるものが、生活の中から、相当楽しく、面白く、愉快で、スウィートだと思えるものを、かなり量多く見いだしてくれるのである。
 だから、何としても、常に面白く、日々の自己生活の中から、出来るだけ多分に、情味を味わうように心がけねばならない。
 それにつけても、特に知っておきたいことは、生活の情味というものは、楽しい事柄の中にのみあるのではなく、また、そうだといって、金や物質の豊かなときにのみあるのではない。
 悲しいことの中にも、また悲しいことがらの中にもある、いわんや人間世界の階級差別に何等の関係はないのである。
 否、むしろ富貴や地位に活きるものは、生活の情味を、そうしたものの中から獲得しようとするために、真の味わいを味わいがたい。
 従って、真の幸福というものを味了(あじわって、うけおさめること)することも、容易でない。
 だから、この真理を考察(物事を明らかにするために、よく調べて考えること)して、我々は、出来る限り、広くかつ深く、生活の中から情味を見出すことに努めよう。
 要は、心の力を強めることである。
 さすれば、我々の命の活きる範囲は、多々益々拡大され、内容も、いよいよ豊かに、そして自然と幸福も量多く感得(感じて会得すること。幽幻な道理などを悟り、知ること)される。
 つまるところ、人生は【存在】ではいけない。【生成】であらねばならないというのも、この理由なのである。
 即ち、人生に対する心構えは、【在る】ではいけない。【成る】でなければならぬということなのである。
 わかりやすくいえば、人生というものは、ただ単なる【存在】として活きるのではなく、常に【生成】を心がけるべきである。
 もっと詳しくいうならば、人間は、人間の心意でもって、人生を如何に正しく作為(積極的な行動・動作、または挙動)すべきかということを考慮すべきである。
 そして初めて人間の本来の使命に順応(環境・境遇にしたがって、これに適応すること)
 それは、何を措いても、現世にまず正しく活きるために如何なる人生事情をも、楽しみに振り換えて、常に【生成】の中に巻き収めて活きよ、である。

 かくして、初めて人間の生命の価値が感得され、同時に、それが本当の人生に対する正当な自覚であり、また尊い責務だと信ずる。



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