第八条
「如何なる事を為すにも、我が心に、力と、勇気と、信念と、調和を堅固し事を成す。」

 およそ、人生に生ずる人事世事の一切に応接する際、その何よりも寛容なことは、我が心に、力と勇気と信念(ある教理や思想などを、かたく信じて動かない心)を欠如(欠けていること。足りないこと)すると、一切の事柄に対する完全処理ということが、しばしば不可能に陥るか、若しくは不完全に終わる怖れがある、
ということを忘れてはならない。

 ところが、多くの人が、この大切なことを、正しく自覚していない傾向がある。そして、何事かの処理や統御(統べおさめること。まとめて支配すること)が思うように完全に出来ないと、その原因が、何か他面に存在しているかのごとく考察(物事を明らかにするためによく調べて考えること)し、おおむね、多くの場合、その因果関係(原因と、それによって生ずる結果との関係)が「自分の心構え=心的態度」の中にあるのだということを正当に認識しない。

 およそこの世のありとあらゆる事柄の中に原因のないものは、絶対に、一つとしてあり得ないのである。
要約すれば、一切の結果現象というものは、原因というものの集積に他ならない。
現に、アインシュタインの相対性原理説の中にも、「原因とは、構成に対する相対性連携(つながって、次に及ぶこと)である。」と説いている。

 実際!
 このことの絶対真理であるということは、己の言動や行動や仕事などの結果に、何か意に満たぬものがある時、それを子細(事のくわしい事柄、いわれ)に検討すると、必ずや「力」か「勇気」若しくは「信念」が欠如していたがためだという、原因的事実がある。これは、少し注意すると、直ちに合点することと思う。さすれば、何人といえども、何事をなす場合にも、力と勇気と信念とを三位一体とする心構えが、そのことの成果を現実化するに、何より必要な根本条件だと、無条件に自覚するに違いない。
 がしかし、特に厳かな付帯条件として、疎かにしてはならぬことは、たとえ力と勇気と信念とを持ち合わせ、物事にあたるといえども、その場合、調和という大切なことを無視するということは、断然許されないということである。
 というのは、調和ということを無視した言動は、当然、完全な成果を現実のものになし得ないからである。
 これは「不完全の中に調和が絶対にあり得ない。」という宇宙真理があるためであり、従って、調和を度外視した言動は、結局は、現実構成の軌道から脱線すべき必然性を生み出すか、又は、招来(まねきよせること)するからである。これはよく世間に実例のあることで、多くの人の中には、何かの目的の成就(成し遂げること。願いがかなえられる。物事が成し遂げられ、得たものは失わないこと)に向かい、力も、勇気も、信念も、充分にその心構えの中に申し分のないほど存在するのに、一向によい成果を実現し得ないという人がある。そういう人に限り、調和という大切な条件を無視し、ただがむしゃら一途に、自己の存在のみを、その全てとする無軌道的努力をあえてなすのである。
 要するに、こうした人が成果を実現し得ない原因は、つまるところ、自己存在のみを重く考え、「自己以外にも人がいるのだ。」という大切なことを重大に考えない結果、知らず識らずの間に、調和を無視してしまうがためなのである。
 すると、その当然の結末として、事物の現実構成が、努力に相対的に順応(環境・境遇にしたがって、これに適応すること)してこないことになる。

 まことに、真理と事実とを厳粛(おごそかで、つつしみぶかいこと)に考察(物事を明らかにするために、よく調べて考えること)するとき、かりそめにも、我ら救世(乱れた世の中をよくすること。人々を苦しみや不幸の多い世から救うこと)事業に即応する、人生に正しく活きんとする者は、如何なる場合にも、調和を無視した人生に、たとえしばしの間といえども、活きるべきでないと正しく自覚し、かつ実践(実際に履行すること。一般的に、 人間が何かを行動によって実行すること)すべきである。

 「調和は、相対事物の中に、これを求めるべきではなく、要は自ら進んで作為(積極的な行為、動作または挙動)すべきものである。」



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