第九条
「人あっての自分、自分あっての人、何事を成すにも、報酬を超越して成す。」

 この意義は、結局の所、報酬(労働、骨折りや、物の使用の対価として給付される金銭、物品)を目当てになされる行為は、およそ相対的で、言い換えると、第二義(根本の理義でないこと。主眼とする意義でないこと)なものとなり、これに引き換え、報酬を超越してなされる行為は、絶対的で、第一義(究極の真理。最も大事な根本の意義、また、本質的で最上の価値あること)であるために、真の尊さは、つまるところ後者にのみあるという意味を表現する章句である。
 要約すれば、前者と後者とは、その行為の結果の如何に関係するところなく、その行為の全体を支配する心的現象に、あるデリケートな相違が存在するからである。
 そのデリケートな相違とは、「真実心=まごころ」のこもり方というものなのである。
 たとえば、世間一般の人の言葉に、「これはさすがに金がかかっているだけに、よく出来ている」ということがある。
 がしかし、その場合、金がかかっているから、まごころもこもっているとはいえない。
 また、その場合、その報酬の多いか少ないかで、まごころのこもり方に差異があるとしたら、そのまごころなるものは、報酬の多い少ないに左右されるものなのだから、厳密にいえば、まごころというべき尊厳(とうとくおごそかで、おかしがたいこと)なものではなく、強くいえば念入りに行なったとか、丁寧に行なったとかいう言葉で形容すべきが妥当である。
 何れにせよ、人間の行為に、まごころのこもってなされるものと、その「否」との場合は、その結果の事実の如何にかかわりなく、その行為の「尊さ」というものに、格段の相違がある。
 たとえば、極めてありふれた例だが、他人の危機を救うというような場合、報酬を目当てにして人を救ったのと、全く報酬などを念頭に置かずに救ったのでは、たとえ思い切って難を冒してまで救ったという、その行為と事実とは同様であったとしても、その行為の尊さに、全く大きい隔たりがある。
 というのは、多くいうまでもなく、後者は、人の危機を救うのは、人間の当然の責務、言い換えると、人間として当たり前のことだと思うと、自然とそれがまごころであるのだから、であるのだから、ほんの少しも、報酬などということを、その行為に対する計算の中に入れていないからである。
 もっと奥をいうと、その行為の原因となす「心」なるものが、報酬というものを念頭に置いた「心」と、全く相違する「まごころ」という純正なものであるから、断然正しく、清いのである。
 真理は全てのことに、貫き通っているのである。
 事実において、それは人を救うというような大きい事実に対してのみだけではなく、日常の人生生活の際に行われる行為に対して考察(物事を明らかにするために、よく調べて考えること)しても、また同じことであると痛感されるものがあると思う。

 たとえば、ちょっと一杯のコーヒーを出すのでも、「ハイ」と返事をするような、些細(取るに足りないこと)な行為でも、そのとき何の報酬をも念頭に置かず、即ち、その人に気に入られようとか、あるいは、好感を持たせようとかいうような気持ちではなく、そこに一点、何の求めるもなく、純粋な「心」で、それが行われるとき、その行為から、形容の出来ない温かいものを感じる。それは即ち「まごころ」というものの持つ尊さの感応(心に感じ、こたえること)である、と同時に、もう一つ理解しておくべき重要なことは「まごころ」で行われる行為には、絶対の強さというものがあるということである。
 ところが、この重大な事実を、多くの人々は了解していない事実傾向がある。
「まごころ」で行われる行為に、絶対の強さがあるというのは、そもそも如何なる理由があるのかというと、要約すれば「まごころ」という「心」の中には、期待というものがないから、当然失望というものもないのである。
 多くいうまでもなく、失望というものは、ある期待が裏切られたときに発生する相対的心理現象である。
 それゆえに、報酬を行為の対象とすると、その報酬は、当然「期待」というものが付随するから、その報酬が期待通りであれば、何等、失望は生じないが、そうでないと、すぐさま失望念が発生する。するとその行為に、いわゆるムラが出て来る。従って、当然その強さというものが、もしかすると失われがちになるのである。
 即ち、これが「何事をなすにも報酬を超越してなすべし」と、力説するわけである。
 ならば、如何なる時でも、救世(乱れた世の中をよくすること。人々を苦しみや不幸の多い世から救うこと)事業を全うする我グループ社員は、「報酬は私にとって目的ではない。」を、我らの人生モットーとして生活することに、注意深く心がけなくてはならない。
 加えて、この世の中に活きるものは、如何に偉くなっても、自分一人で活きられるものではなく、人あっての自分、自分あっての人、ということが、即座に直感され、その直感が良心に感応すれば、報酬を超越した責務感となり、さらに当然の結末で、その責務感がまごころとなって表面に現れる。

 まごころとは、一番優れている積極の心なのだから、前述の通り、その行為には絶対の強さが付随するのだから、その生活行為にも、少しも疲労を感じないことになる。

 常に粛み省みよう。



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