第十章
「“和合の心”
ここの、家庭生活の、日々の、暮らしの中に、真実の平和を築く。」

 多くいう必要のないほど、平和という言葉は、現代の世界人のいわゆる民族常識のスローガンになっている。
 がしかしである。しからば、その平和なるものが、どこかに、真実に、果たして現実化しているというと、遺憾(思い通りにいかずに心残りなこと。残念、気の毒)ながら、「否」と答えざるを得ないのが、今の世の実相である。
 そもそも、これは一体どういうわけなのであろう?
 かりにも、人という人の全てが、平和ということを心の底から念願しているにもかかわらず、一向にそれが現実化されないというのは、なぜなのか?

 私は思う。
 それは、つまるところ、平和を現実化するのに、何よりも必要な「和の気持ち」というものこそ、平和現実を具体化する唯一の根本要素なのである。だから、人間の個々の心の中に、この「和の気持ち」というものが欠落している以上、どんなに平和を念願し、それを声高くスローガンとしてアピールさせようとしたところで、所詮、かけ声だけに終わるのは当然である。
 多くいうまでもなく、基礎工事の不完全なところに堅固(心がしっかりと定まって動かないこと)な建物が築かれないのと同様である。ところが、このわかりやすい道理が、いつも、平和建設の設計の中から、いつの場合に措いても、置き去りにされていると感じる。
 たとえば、労資(労働者と資本家)の問題にもめごとが起きた場合でも、また、政党政派の間に生じた政争のようなものでも、詳細にそれを観察すると、ただ相互の利害関係にのみ重点を置いて、いたずらに条件本意の解決方法で、平和を現実化しようとする。
 従って、なかなかうまく協調しないのである。

 実際!
 そのとき、そこに相互の心の中に、他所うなりとも「和の気持ち」があるならば、「思いやり」という、もっとレベルの高い心情が現れ、当然条件本意などという、自分達に都合のよいことばかりを考えるという、レベルの低い心情が自然と抑制、若しくは、中和されて、相互に譲歩(自分の主張や意見をひっこめて、他の説に従うこと)の限界を拡大するという、気高い事実が現実化してきて、苦もなく、正しい協調が作り出され、人類の活きる姿の中で、最も尊い平和というものが、現実のままに現れることになる。

 ところが、いざとなると、頭から「和の気持ち」という尊いものなど、どこかに放置して、ただ争うがために争うという、第二義(根本の理義でないこと。主眼とする意義でないこと)的の低級な感情のみを炎と燃やして、やかましく騒ぎ立てるのである。
 これでは、第一平和の女神が寄りつくわけがない。
 従って、完全な解決などということも、また望むこともない。
 そして、こうした事実情勢が、現代社会の各層はもちろん、国と国との間にも日夜絶え間なく現実に行なわれているのである。
 こうしたありさまである限り、前述した通り、いくら平和平和と念願しても、また、アピールしてみても、結局は、無駄であり、骨折り損に終わるのが必然である。
 では、どのようにすれば「和の気持ち」「平和」という目的を達成できるのだろうか?
 私はあえていう。
 それは、「何よりも、第一に個々の家庭生活の日々の暮らしの中に、真実の平和を築くことだ。」と。
 言い換えれば、家庭の中に、ことの如何を問わず、断然争いを起こさぬことである。
 最も、このようなことをいうと、「それはなかなか言うは易くて、行うは難し」と、凡人はすぐいうだろう。しかし、それは要するに、人生というものを、正しく理解していない凡人というものは、因縁尊重という大切なことを、考えないからである。
 また、考えたとしても、軽く考えるからである。要するに、この広い世界に、数え切れないたくさんの、人という人のいる中に、自分たちだけが、一つの家の中に、夫婦となり、親となり、子となり、兄弟姉妹となり、さては、使うもの、使われるものとなって、一緒に生活していると言うことが、並々ならぬ、言い換えれば、とうてい人間の普通の頭では考えきれない「縁」という不思議以上の幽玄(奥深く微妙で、容易に、はかり知ることのできないこと。また、あじわいの深いこと。情趣に富むこと)なるものが作用した結果だという、極めて重大な消息を、重大に考えないからである。
 それから、この「縁」という不思議以上の幽玄なる作用は、これを科学的に考えても、実に重大な消息が察知されるのである。
 それは、およそこの世の中の、万物万象がどうして作られているかということを考えると、直ちにこの消息の重大さが明らかになるのである。
 それは、この世にある万物万象の一切は、これを科学的にいえば、人間の五感官能(視・聴・臭・味・触覚)では、とうてい完全に認識することの不可能なアトミック・カルパスクル(万物創造のエネルギーの素)と名付けられる極微粒子(粒状の微少なもの)である。そして、これを一九〇七年以来、「プランク定数H(「気」を構成する微粒子)」と名付けられているのは、専門家の熟知するところであるが、要するにこの特殊な名称をもつ極微粒子が、この宇宙の空間を形成している。即ち、言い換えると、宇宙の空間とは、この極微粒子の充満した姿を指しているのである。
 そしてこの微粒子は、そのものズバリと言ってよい、
 即ち、エネルギーそのものなので、従って万物万象のことごとくが、その存在を表現するのは、このエネルギーの結合融和の結果で、また万物万象おのおの、その形が異なり、そのところを定めるのもまた、エネルギー作用で決まる。
 従って、哲学でいう「縁」なるものは、科学的にいえば、このアトミック・カルパスクルの微妙な統合なのである。
 即ち、万物万象の根元をなす「プランク定数H」というエネルギーの離散集合の調和現象に対する名称なのである。
 もっと科学的にわかりやすくいうならば、万物万象の存在は、「プランク定数H」と称する極微粒子の集積である。そして、その集積は、文字どおりの集積で、決して独自の存在ではない。
 即ち、互いに協調し、扶助しあっての存在である。従って、一切の物事も、その協調と扶助とが完全であるときに、安定という事実が、具体的に現れる。そして、さらに考えねばならないことは、事や物の推移変遷(うつりかわること。時の移りゆくこと)するのは一切の物、事を完全化しようとする宇宙に存在する「自然現象=アトミック・カルパスクル」の本来の作用であるところの、「調和の復元」という作用の現れである。
 つまり、アトミック・カルパスクルの作用に対する根本原理の変化は一切ないのである。

 だから、我グループ社員は、何を措いても、まずこの「縁」を重大に考えなければならないのである。
 即ち、人為的にどうすることも出来ない、このアトミック・カルパスクルの作用を尊重、むしろ尊敬するのである。
 即ち、この犯すべくもない真理に立脚して、一つの家の中に、日常生活なるものを、別個の存在と考えないのである。
 即ち、全てを「一つのもの」と考えるのである。言い換えると、全てを己と考えるのである。

 己が己を憎んで、己を疎外したり、己を打ったり、叩いたり、正気の者ならするはずがないのと同様である。
 即ち、全てを「一つ」と考えるとき、理屈なしに、人間の心の中の一番尊い愛の情というものが、発露(あらわれること)する。愛の情こそは、和の種子であり、また稔りの力である。
 ところが、

 何故か!
 といいたいくらい、現代の文化民族の人々の家庭には、愛の情が漂っていない。たとえ、漂っていても、それは動物的な感情本意の愛の情で、まごころから出る愛の情ではない。
 だから容易に、のどかな春風のような恩恵(めぐみ、なさけ)がなかなか訪れないらしい。というのも、つまるところ「精神と現実の中に、思索をもっと入念に振り向けて、物事に対する省察(自ら省みて考えめぐらすこと)の深さを現実にする。」という、いわゆる内省検討を、粗雑にしていることに気付かず活きているがためである。しかし、これもまた前述したとおり、こんな人々の多い世の中では、とうてい我グループが目指している、明るい社会などは容易に建設することは出来ない。

 だから、是非ともこうした正しい真理を理解し、自覚して、その自覚を根拠として尊く日々を活きる我グループ社員は、ますますその自覚を実生活に実行して、無自覚な不幸に活きる人々を幸福にするために、まごころで教えてやろうではないか。

 重ねていう。

 どうか、ますます世のため、人々の幸福のために、救世 (乱れた世の中をよくすること。人々を苦しみや不幸の多い世から救うこと)事業を実践(実際に履行すること。一般的に、人間が何かを行動によって実行すること)する、尊い私たちの仲間を殖やされんことを、お互い人生功徳のために、心の底からお願いする次第である。



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